イチ太郎スマイルⅡ

ライブドアブログから引っ越したくすぐり物書きです

【小説】くすぐり魔女と少女と複製された脚 ~Re:くすぐりブーツの呪い~



過去作:くすぐりブーツの呪いのリメイク及び完結編です。

リメイクにあたって描写等を変えた部分がありますが、リメイク前のを読了済みならば追加部分から読み始めても大丈夫です。

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 ある日の昼下がり、とある森の中。一人の少女が大型のイノシシ――ワイルドボアと戦っていた。

「ほらほら、こっちよっ!」

 ワイルドボアは何度も何度もどう猛なタックルを繰り出していた。不意を突かれるか抗戦する者が未熟であったならば、たちまち吹っ飛されてしまっていただろう。

 少女――ミリス・ロルテがどちらにも該当していないことは、傷一つ負っていない現状がその証明だった。ワイルドボアの体は、踊るように避けるミリスの体の空を切るばかり。ワイルドボアとの戦闘に慣れているミリスにとって、この攻撃はひどく単純でどうぞ避けてくださいと言わんばかりだった。

 ミリスは手に持った直剣ですれ違いざまに一閃、また一閃。振るわれる直剣がワイルドボアの身を削いでいく。柔らかな肉から血が飛び散り、地面には赤い水玉が点々と。
 そんな殺伐とした状況において、二つ結びにしたツーテールの金髪や黒いスカートの舞う光景は不釣り合いなほど可憐だった。
 スカイブルーの瞳に映る魔物は、もはや死が目前だ。よろよろと、弱々しい足取りで立つのもやっとのように見える。

 勝利を確信したミリスは肩より上に剣を掲げ、その先端をワイルドボアに向け、

「これで、終わりっ!」

 思いっきり振り下ろした。

 ワイルドボアの野太い慟哭が辺りに響きわたった。

 目の前の魔物が物言わぬ肉塊へと変わり果てたのを確認すると、汗をぬぐいミリスは剣を鞘に納めた。

「……よし、これで五体目っと」

 代わりに別の鞘から取り出したのは、先ほどまで使っていた剣よりも刃渡りの短い、ナイフやダガーに近い解体用の刃物だった。

 刃を通し、まるで料理をするように鼻歌交じりで解体作業し始める。その様子はとても手馴れており、ミリスはあっという間に麻袋の中へ鮮やかな赤肉を詰め込んだ。
 ミリスが魔物退治をしているのには理由があった。ギルドに持ち込まれた依頼を受けて日銭を稼ぐ。彼女はそういった稼業で生計を立てていた。
 この地方では、近くの森にワイルドボアが多く生息していた。皮はなめして防具やブーツ用の素材となり、肉は鍋などの郷土料理の材料として頻用されている。そのため、魔物退治は結果として商業を賑わせる助けになっていた。
 そして最近は、特にワイルドボアの数が増え農作物の被害が広がっていたらしい。だが、退治して報酬を貰うだけの立場にあるミリスにはどうでもよい話であった。

「ま、これだけあれば十分かな」

 よいしょっ、と肉の入った麻袋を持ち上げる。解体したとはいえなかなかの大物。それが数匹分ともなれば年頃の少女にとっては決して軽い荷物ではないだろう。

「暗くなる前に納品しないと……んっ?」

――がさがさがさ……!

 街へと続く道を歩いていると、すぐ横の茂みが揺れていた。

「誰かいるの?」

 呼び掛けてみるも返答はない。言葉の通じない魔物だろうか? それとも追い剥ぎの類だろうか?
 ミリスは腰に差した剣を引き抜き、鋭利な先端をその方向へ合わせた。

――がさ、がさがさ……!

「…………」

 こちらの出方を待っているのだろうか? そうであるならば不用意に近づくのは危険だ。そう判断したミリスは一定の距離を保ちながら視線の先を睨み続けている。
 すると、

「……ふーっ♪」
「ひゃあぁぁっ!?」

 突如、ミリスの背筋にぞわぞわした感覚が駆け抜けた。

「な、何するの!?」

 耳を押さえて飛び退くと、ミリスの視界には見慣れない女性の姿があった。
 どうやら耳に息を吹きかけられたらしい。すぐさま平静を装うと、軽く咳払いをして女性を真っすぐ見つめてみる。

「……あなたは?」
「私はフィリア。通りすがりの魔女だよ~」
「魔女?」

 言われてミリスは、女性――フィリアの格好を観察し始める。

 上半身から下半身までを覆う厚手のローブ、頭には紫色の三角帽子。右手には大樹の枝を模した杖、左手には中身の入っていない麻袋があった。

 ミリスより年上であることは明らかで、その外見は二十代前半の女性といったところだ。魔女と名乗るにはいささか若い気がするが。

「そう、魔女なの。最近、この辺りに引っ越してきたの。屋敷ごと。ほら、あの道を行った先にあるでしょ? あれが私の住んでるところ。よかったら今度遊びに来て……って、どうしたの?」

 顔立ちは整っていて、ありていに言えば美人だった。街中で声をかけられて喜ばない男性はまず居ないであろうし、同性であってもその美しさに羨望や憧憬を隠せないだろう。
 ミリスも例外ではなく、フィリアの姿に目を奪われていた。上品な雰囲気を感じさせる美貌や、腰ほどまである赤みがかった艶やかな黒髪。袖口から覗く白い肌も、全てが今までに出会った女性と違って感じられた。
 微笑みかけられて恥ずかしくなったのか、「なんでもない……」と言いながらミリスは慌てて目線を逸らした。

「ぁ……そういえば!」

 逸らした視線の先にあるのは、先ほどまで音を立てていた茂み。

「あれっ?」

 ところが、茂みの揺れはすっかり止まっていた。試しに向こう側を覗いてみると何もなかった。

「ふふ、何か居たみたいだね。でも安心して。もう追い払っちゃったから大丈夫」
「え? どうやって……?」
「そりゃもう、魔女だからね。そこはかとなくにじみ出る魔力を恐れて、魔物さんは驚いて逃げちゃうのだ~」
「はぁ。で、その魔女があたしに何か用なの?」
「んー、そうねぇ。なんとなーく気になっちゃってね、お嬢ちゃんのこととか、その靴のこととか」
「靴?」

 言われてミリスは指差されたブーツを見た。ふくらはぎまでを覆う革製の茶色いブーツだ。

「それ、けっこう長く使ってるんじゃないかなーって思ってさ。買い替えたりしないの?」

 ブーツはところどころ擦り切れて色の薄くなった箇所や、傷の目立つところがあった。確かにずっと履き続けていて、そろそろ替え時かなと思ったこともあった。

「うーん、そうしたい気持ちもあるんだけど……」
「けど?」
「思い入れ、あるんだ」

 言いながら、ミリスは思い出していた。数年前、冒険者ギルドに登録して初めて依頼を達成した日のことを。何かの記念日にしようと、今履いているブーツはその時に得たお金で買ったものだった。
 ゆえにこのブーツはミリスにとって、並々ならぬ愛着のある一品だった。幸い、成長期に至っても足のサイズが大きく変わることがなく、ずっと履き続けることができた。

「ふぅん、大切なものなんだね」

 ミリスの嬉しそうな顔を見つめながら、フィリアは納得したような顔でうんうん頷いていた。

「じゃあさ、もしもその靴が買った時の状態に戻ったらどう思う?」
「えっ?」

 感傷に浸っていたところで問いかけられ、現実に引き戻された。
 もしもこのブーツが新品になったら。顎に手を当て、ミリスは思案し始める。

「嬉しい、かな」

 思えば、気に入ったきっかけはデザインの他に手触りや感覚という面が大きかった。
 革でできたブーツというものは、一見すれば同じようでもじっくり観察してみると違いに気づかされる。特に、手で触れた感触や足を通して歩いてみた時の感触は、革によって大きく異なるものだ。人間ひとり一人に個性があるように、革自体の質や手がけた職人の腕で出来はまちまちだ。
 店にたくさんあったブーツを手に取っては試着し、吟味したうえで選んだものだ。運命といってもいい。似たものや近いものは沢山あるだろう。けれども、全く同じものに再会する可能性はほぼ無い。
 ミリスにとって最高のブーツは、今履いているものに他ならない。なので、ミリスは質問に対して肯定の意を示していた。

「そっかぁ。戻ったら嬉しいんだね」
「もちろん。これより良いものなんて絶対に無いんだからっ」
「りょーかい。じゃあ……」

 フィリアの右手が青白く光り始める。その光は右手の杖へと集められていた。それがミリスのブーツをコンコンと軽く叩くと、光がブーツを包み込んだ。

「なに、この光っ!?」
「だーいじょぶ。じっとしてたらすぐ終わるからね~」

 ミリスは突然の出来事に目を白黒させていた。よくわからないまま、言う通りにしているとあっという間にそれは終わった。

「う、うそ……?」

 光っていたのはほんの数秒だった。足元の光が晴れ、ふくらはぎ以下が姿を見せた。
「新しく……いや、これって!」

 ブーツの傷は綺麗さっぱり無くなっていた。しかし、ミリスが驚いていたのはそれだけが理由ではなかった。

「ふふ、どうかな?」
「す、すごい……! 本当にあの時と同じ……」

 ミリスのブーツは、不思議なことに昔のままの状態に戻っていた。
 試しに手で触れてみる。きめ細かい繊維の手触りが気持ちいい。気になっていた擦れ具合が完全に解消されていて、ずっと触っていたくなる。
 触った後の匂いを嗅いでみる。革をなめすために用いる、樫の樹皮から抽出された油の匂いが初めて手に取った時の思い出を蘇らせる。

「わぁ、わあぁぁぁぁ……!」

 片足立ちになってみたり、軽く歩いてみたりしてみる。不思議そうにしながらも、ミリスの顔はとても綻んでいた。体全体で嬉しさを表現する彼女はまるで無邪気な子供だ。

「いやぁ、よかったよかった~」

 そんなミリスの笑顔を見て、フィリアはくるりと身を翻した。その顔は、まるでひと仕事を終えた後のような爽快感に満ち溢れていた。

 そう、これは魔女にとって大仕事。今この瞬間に、その下準備が完了したのだ。

「あ……まっ、待って!」

 去っていこうとするフィリアを見て、ミリスは慌てて呼び止めた。

「んー?」
「そ、その……せめて何かお礼を……!」
「お礼? いいよいいよぉ。だって……」
「そんなわけには……っひいぃ!?」

 瞬間、ミリスは悲鳴のような声をあげた。

「もう、貰っちゃったから」

 フィリアが左手に持っていた袋を抱えると、それを右手でゆっくり撫で始めた。慈しむように、可愛がるように。いつの間にか何かが入っていた袋にフィリアの指が触れるたび、ミリスの足にムズムズするような刺激が走る。

「なっ、なんかくすぐっ……ふぁ、は……! あっ、あはっふぁはははっ!?」

 撫でる動きから五本の指でわしゃわしゃと細かい動きに変わると、ミリスの反応が激しくなった。

「ゃはっやはぁぁああっはははははははっ! くすぐったいっ、くすぐったいいぃぃぃっ! とめっ、とめえぇえへへへへへええっ!」

 伝わる刺激は猛烈なくすぐったさとして襲いかかる。それが足の裏の一点……土踏まずに集中して押し寄せてきた。他人どころか地面にすら触れることの少ないこの箇所は防御が極めて手薄だ。
 くすぐったいという感情で頭がいっぱいになり、ミリスの足はガクガクと震えて立つことも段々ままならなくなる。

「へぇ、ここ弱いんだぁ……!」
「ぁひゃあぁあははははははははっ! んぇ、んへえええぇええっ! なんなのっなんなのこれぇぇぇぇぇ!」

 反応が上々と見るや、フィリアはその箇所から手を移動させることなく指を動かし続ける。ミリスは自分の意思と関係なく笑わされ続けて、身体に疲労が溜まっていく。遂には、その身体は地面にうつ伏せに倒れてしまう。

「ひぁっはあぁぁあーっははははははははっ! ま、まじょさぁあっひゃひゃひゃひゃっ! それ、それなんなんですかぁぁああっ!?」

 足をじたばたと振って、腕で地面をべしべしと叩いて、くすぐったさを誤魔化そうとミリスは必死になる。そんな中、この刺激は目の前の人物によって引き起こされているのではないかと気付き始めた。

「何だと思うぅ~?」
「なんでもいいぃいああっはっはははははは! おしえひぇえっへへへへへへ! っていうか、止めっとみぇえっへへへぇ……!」
「しょーがないな~」

 地面で悶えるミリスを楽しそうに見下ろしながら、要望に応えるようにフィリアは指の動きを止めた。そして袋に入っていた何かを取り出した。

「はぁ、はぁ……なに、それ……?」

 それは、まるで人間の脚だった。膝より下までの形が再現されており、ちょうどミリスのブーツが覆う面積と同じくらい。色は真っ黒だったが、上の方をよく見ると僅かに白い部分があった。

「人形?」
「んー、作りものじゃないんだなー、これが」
「へ……?」

 じっくりと観察してみる。確かに、人形の一部分にしては生気を感じる。
 質感や醸し出す雰囲気は、まるで足だけの生物にも見える。よく見ると、先の方はビクビクと震えたり丸まったりしていた。

「んー、まだよくわかってないって顔だね。こうしたら、わかるかなぁ?」

 どうやら、その脚は黒いソックスに包まれていたようだ。これ見よがしにソックスを外し、つつつ……っとフィリアの人差し指が足の裏を軽くなぞると、ミリスの口から「ひぁっ!?」という小さな悲鳴が漏れた。

「い、今のは……?」

 まるで自分の素足を直接触れられたような、そんな感覚だった。そういえば、袋に入っていたそれに指が触れていた時もくすぐったい感覚がずっと続いていた。

「ま、まさか……!?」
「そのま・さ・か♪」

 もう貰ったという発言、延々と続く刺激や先ほどのひと撫で。根拠は揃っていた。

「あ、あたしの脚……?」
「正解~! さっきの魔法でぇ、脚を複製しちゃったのだぁ~」

 複製された脚に伝わる刺激は、何故かミリス自身の足にも伝わっていた。どういうメカニズムで成り立っているのかはわかっていないが、その事実だけは理解できてしまった。
 信じられないとばかりに戸惑うミリス、自慢げにはしゃぐフィリア。二人の様子はひどく対照的だった。

「そ、そんなこと。できるわけない……」
「できるよ? だって、私は魔女だもん」
「じゃあ、この靴は……」
「脚をコピーさせてくれたお礼だよぉ。等価交換、ギブアンドテイク。時間を逆行させて新品に戻してあげただけ~」

 簡単に言うが、時間を操るなんて神話や物語の域だ。現世に生きる人間が成し得たなど信じられない。ミリスが呆気にとられていると、フィリアの体は宙に浮き始めた。

「えっ!?」
「と、いうわけで私はこのまま帰るね。かわいい脚をありがと~」

 これも魔女だから成せる技なのだろうか? 手の届かない高さにふわふわ漂い別れを告げるように手を振っていた。

「ま、待ってよ! そんなの困るってば!」
「大丈夫大丈夫。痛いことはしないから。ちゃんとお手入れして、可愛がってあげるから~」
「そういう問題じゃないっ! ま、待てっ! こらー!」

 ミリスの猛抗議も虚しく、フィリアの体は次第にこの場から離れていく。

「じゃ、またね~♪」

 やがてその姿が木々の向こうへ消えていくと、これから起こりうる悪い予感に胸がざわついた。



 その悪い予感は的中した。

 魔女と別れて以降、ミリスはいつ来るかわからないくすぐりに怯える生活が続くことになる。

 町を歩いている時でも、

「っ、ぷふぅうっ!? っ、く、ひゅふふふ……!」

 食事をしている時でも、

「ぃ、今ご飯たべぇえっへええぇっへっへへへへへ! っ、ごほっ! ごほぉおっ! のどつまっひゃっはっははああぁぁあああああっ!」

 風呂に入っている時でも、魔物と戦っている時でも、眠っている時でも。魔女によるくすぐりは襲いかかってくる。
 最初の方は頻度も少なく、我慢できる類のくすぐったさが一回に短時間訪れる程度だった。しかし、日に日に頻度・強さ・時間は増していく。依頼を受けてもまともに戦うこともできず、お金を稼ぐこともままならない。

 これはもはや呪いだ。日常生活を侵食する、意地の悪い呪いだ。

 止めなければならない。そして、一発ぶん殴ってでもこの恨みを晴らさねばならない。

 そう決意してからの行動は早く、会話の内容から道のりを思い出しながらミリスは魔女の屋敷へ辿り着いた。道中、何度も笑い転げてしまう目に遭っていることは想像に難くない。顔には疲労の色が濃く、黒いワンピースは土ですっかり汚れてしまっていた。

 立派な格子の門は、まるでミリスの来訪を待っていたように開かれていた。
 そのまま中庭を抜け、立派な大扉を押し開け、ミリスは魔女の住む屋敷に入っていった。

「…………」

――パタンッ。

 薄暗い廊下に足を踏み入れ、数歩ほど進んだあたりで屋敷の入り口が閉ざされた。
 陽の光が遮断されたことで、廊下の闇はさらに深くなった。それでも、恐れてはいけない。ミリスは覚悟を決めたのだから。 

「ねぇ! 見てるんでしょ? あんたの望み通り遊びに来てやったわよ!」

 暗さで増幅されていく不安を打ち消すために、自らを鼓舞するために、存在を主張するような大声を廊下に響き渡らせた。

 そしてミリスは気付いていた。自分の悶える様を観察し続けていた何かの存在に。おそらく、今も近くで飛んでいるのだろう。右に左に目を配って、その気配を探り始める。

 すると、ミリスの声を合図に壁いっぱい並んだ燭台に火が灯り、

――パタパタパタパタ……!

 小さな何かが、コウモリを連想させる黒い翼を揺らしてミリスの前に現れ、

「いらっしゃ~い!」

 そして数日前にミリスが耳にした、やけに甲高く楽しそうな女性の声が返ってきた。
 握り拳サイズの目玉から女性の声が発せられているのはなんともシュールな光景だった。しかし、ミリスにとってそれは何も面白くない。

 この翼付き目玉は、数日前――いや、思えばもっと前からミリスの視界の隅でちょろちょろ飛び回っていた使い魔だった。上下左右に動いて様子を窺っていて、ミリスにとっては非常にうっとうしく思えた。だが、それを殴ったところで鬱憤が晴れるわけではない。目的は全ての元凶である魔女だ。

「ふふ、でも嬉しいなぁ~! 本当に来てくれるなんて思ってもみなかったよぉ」

 来るように仕向けておいてよく言う。その可愛い子ぶった甘ったるい声が段々と耳障りに思えて、ミリスは小さく舌打ちをした。

「それじゃ、使い魔ちゃんの後をついて来てね~?」

 そう言うと使い魔はくるりと振り返り、真っすぐ伸びた廊下をゆっくり進み始める。

 言われた通りついて行きながらも、ミリスは少し呆気にとられていた。思っていたより、あっさりと部屋へと案内される流れになったからだ。


 だが、油断をするつもりはない。何かしらの罠や、足の裏へのくすぐりに対し警戒を強めながら歩みを進めていく。

 しかし、それは杞憂に終わった。意外なことに、ミリスの身には何も起こらなかった。

「ねぇ、まだ着かないの?」
「焦らない~っと。はい、ここでストップ~!」

 蜘蛛の巣のように複雑な道を歩き続けていたところで、使い魔の動きが突然ぴたりと止まった。それに合わせてミリスも足を止めた。

「あちらをご覧くださ~い!」

 手がないのにどこを指すんだと思っていると、

「え……?」

 視線の先に大きな穴が開いているのが見えた。

「あらあらぁ、困ったねぇ。私の部屋ってここを通らないといけないんだよね~」

 50メートル以上先まで虚空が広がっている。
 高い身体能力を持っていても、跳躍力を高める魔法を使ったとしても、反対側にはたどり着くことはほぼ不可能だろう。もっとも、ミリスは魔法にあまり精通していないのだが。

「ここをって……あんな、細い道を渡れっての?」
「女の一人暮らしって、何があるかわからないからね。防犯のために、わざと通りにくい道を作っちゃった☆」

 反対側へ進むためなのか、足場が対岸までを橋渡ししていた。だがその足場はミリスが言うようにかなり細く、頼りない。試しに左足を置いてみると、ブーツで幅が収まる程度の広さしかなかった。
 このまま渡るのは危険だ。足を滑らせでもすると、底までたちまち落ちていくしかないだろう。

「ま、上の方に手すりがあるから、それを使って渡っていいよ~?」

 使い魔の動きを目で追っていると、何もない空間から一本の棒が形成された。
 手すりという割に随分と高い位置にあるそれは、ミリスが思いきり腕を上げなければ届きそうもない。

「…………」

――やけに親切だ。あっさり案内されたことや落ちないための手すりといい、これまで自分を苦しめ続けてきた奴とは思えない。

「ん? どうしたのぉ?」

 首をかしげるように、使い魔の角度が少し斜めになる。

「なんでもない。とにかく、さっさと渡ればいいんでしょ」

 ミリスは考えた。おそらく魔女は、自分を使ってゲームをしようとしているのだろう。
 足にくすぐったさが走っても手すりを離さず渡り切れるかどうか、それを最後まで見届けようとしているに違いない。たいへん趣味が悪い。
 となれば、ここで足踏みをしていても無駄だ。ぐずぐずしていたらきっと足の裏をくすぐって催促するのだろう。地面でのたうちまわる惨状を見せる前にさっさと渡ってしまうべきだ。

「ふふ、がんばってね~」

 意を決したミリスは、足場の前に立つ。そして左足から踏み出した。

「…………」

 細い足場の上に足が乗った。ミリスの中で、一瞬の寒気が走った。
 それもそのはず。誰であろうと、高所からの落下に対して危険を感じてしまうものだ。
 落ちてしまうかもしれないという恐怖。それがミリスに、眩暈のようなふらつきを自覚させた。

「くっ……」

 小さな足の震えが収まり始めたあたりで、ミリスは顔を上げて宙に浮く棒を見据えた。

――これさえ掴めば。これさえ掴めば安全は保証される。頭の上にあるこれを伝っていけば、向こうなんてあっという間に着くんだ。

 今度は右足が前になる。手すりの真下にやってくると、ミリスは恐る恐る左腕を伸ばしてそれを握りしめた。

「よし……!」

 続いて右腕も、同じ要領で上げた。しっかりとした固い感触で、どれだけ荷重がかかっても外れそうもない手すりにミリスはどこか安心感を覚えた。

――カチャッ……!

 それゆえ、ミリスは気がつかなかった。手すりへ両手が絡みついた時に、何かの駆動音が小さく鳴ったことに。

「あ、そうそう。言い忘れてたんだけどぉ」 
「……なに?」
「セキュリティの関係でね、今からちょっとしたシステムが作動しちゃうんだよね~」
「システム? それって……ひっ!?」

 右足、左手、左足、右手。交互に動かして数歩進んだところで、動きを止めて辺りを見渡したミリスに焦りが生まれた。

「ちょっ、なによこれ!?」

 真下の穴から、やや大きな白い手がいくつか現れた。

「んー、私が魔法で作った自信作、かな。マジックハンドっていうんだけどね」

 ミリスの前に立ちふさがるマジックハンドと呼ばれたそれらは、意思を持ったようにワキワキと指を動かしていた。丸っこく太い指が特徴的で、子供の頃サーカスで見たピエロの手袋とよく似ていた。
 何気ない日常でならば親しみやすい印象を与えていただろう。だが、ミリスにとってこれらは親近感を抱くどころか、むしろ恐怖の対象にしか思えない。

「イヤ……! 来ないでっ! こんなのにくすぐられたら……!」

 今のミリスは目いっぱい腕を上げており、腋を晒してしまっている最悪の状態だった。

「さぁ、お譲ちゃんは向こうまで渡り切れるのでしょーか!」

――ニヤッ……!

 この瞬間を待っていたとばかりに、フィリアの声が喜びで彩られる。おそらく、今の様子を見てさぞかし嗜虐的な笑みを浮かべているのだろう。

「騙したなぁっ!?」
「言わなかっただけだも~ん」
「それを騙すって……きゃはっ!?」

 マジックハンドがミリスの右半身に密着した。ちょんちょんっと一本の指で腋の窪みを突っつかれると、小さく声をあげて反射的に右腕を手すりから下ろしてしまう。

「っ、ふっ、くふふふ……! ぁ、うふぅっ……!」

 マジックハンドは二の腕に挟まれることなく、するりと避けてもう片方の腋へくすぐる場所を変えた。今度は左側だ。腋だけでなくその下の脇腹も突っつかれ、ミリスは身をくねらせる。

「はふっふっひひひひっ……! くっ、んんっ……! こ、のぉ……!」

 大声を出してしまうほどではない。我慢できないわけでもない。それでも、意図せず可愛らしい笑い声が出てしまうのは、年頃な少女ゆえ肌が過敏なせいであろうか。
 笑うのをこらえながら、ミリスは思わず左腕も下ろしてしまいたくなる。しかし、そんなことをするわけにはいかない。離してしまえば身体の支えが無くなり、たちまちバランスを崩して落下してしまうからだ。

「ぅひっ! ぷひっ、ひひひ……! どっか、いって……わひゃっはぁあ!?」

 初夏に差し掛かり、やや日差しの強さが感じられるようになってきたため、ミリスの服装は半袖な服にミニスカートといった涼しげな格好であった。
 風通しを良くする目的で、その生地は薄い。それゆえ指先で引っ掻くような軽いくすぐりであっても、ミリスに対して確実なくすぐったさを与え笑いの衝動を引き起こしていた。
 一応、防具は装着しているがその面積は広くなく最低限とも言える。
 刃を通さない固さの胸当て、肩や二の腕を守る軽装鎧、手首とその少し上部分を覆う手甲、膝下までをカバーする革素材のブーツ。これらはミリスの身軽さを失わない範囲の重さで、彼女の身を守る役割を何度も果たしていた。
 だが、それは戦闘においての話だ。
 全身を覆う重戦士用の鎧と違って隙間が存在するうえに、腕を上げた状態だ。侵攻してくるマジックハンドのくすぐりに対して、防具は一切の防御の役割を果たせていなかった。

「ほらほらぁ、時間が経つと後がキツイよ~?」
「くふっ、ふ、ふふふふ……! ぅあっ! うる、さ……はひゃあぁっ!?」

 くすぐったさを堪えながら足を動かし一歩進もうとしたところで、身体に触れるマジックハンドがひとつ、またひとつと増え始め、そのうちの一体がミリスの膝より上に触れた。

「ぅあっは……! は、入って、くるなぁぁ……!」

 ゆっくりとした速度で這いながら、すらっとした脚を昇っていくマジックハンド。ぞわぞわとしたくすぐったさに、ある種の不快感を覚えたミリスは僅かに身を揺らして逃れようとする。

「んきゃあっ……!?」

 狭い足場でできる動きは非常に小さく、マジックハンドをふるい落とすには至らない。太ももを覆うミニスカートへ侵入した際に、マジックハンドの指が脚の付け根に軽く触れ、ミリスの口から甲高い声が飛び出した。

「待っ、そこだめ……! そこゃひゃあぁっ!?」

 ぐにぐにと脚の付け根を揉み解されると、ミリスの体が小さく跳ねた。これまでにない感覚で思わず全身から力が抜けてしまい、手すりを持つ力が緩んでしまう。

「わひっ……! ゃ、は、はっ……!」

――かりかり、ぐにぐに。

 慌てて左手に力を込め、落ちないように必死で堪えるミリス。なんとか落ちずに済んだが、彼女にとって安心できる状況ではなかった。
 一度の弛緩は時間にして数秒にも満たなかったが、その一瞬が確実にミリスの我慢を崩していた。腋を指先で軽くひっかくマジックハンド、効果的と見るや脚の付け根を揉み解し続けるマジックハンド。これらの与える確実なくすぐったさはその隙を逃さない。

――さわ、さわ。

「んひっ……! ひゃ、ふはあぁぁ……! また、ふえたぁぁ……!?」

 そして毛先の柔らかいメイク用ブラシを持ったマジックハンドが参戦すると、ミリスの首筋を掠めるようにして掃いた。
 皮膚の薄い首筋を這うブラシはきめ細かく柔らかい。ぞわぞわとした不快感から逃れようと首をすぼめても、ブラシはうなじに移動するだけで根本的なくすぐったさが離れない。

「はひゅ……! っく、くく……! ぃ、いかげんに、してっ……っ、ぅううっ、ふっふふふ……! も、もう……!」

 唯一自由な右腕を振り回すが、一カ所のくすぐりを防げても残りの箇所への責めを引き剥がすことはできない。むしろ、手の届く箇所すら段々と守れなくなるほどミリスは消耗していく。
 腕と脚はぷるぷると震え、むず痒いようなくすぐったさを誤魔化すように首を俯かせる。彼女にできる抵抗は、こうして耐え忍ぶのみとなってしまっている。

 しかし、その我慢すらも時間と共に綻びを見せ始めていた。

 一度でも大きく笑い声をあげてしまうと、とめどなく流れ込むくすぐったいという情報に溺れて頭が真っ白になる。くすぐりの呪いでそれを嫌というほど教え込まれていたミリスは、口を真一文字に閉ざして声を殺そうと躍起になる。

「はぁ、んっ……! んっ、んぎぃいひっ!? きひぃいいっひっひひひひ……! ひ、ひぁっ、ぁ、あ……!」

 その抵抗すらも雲行きが怪しく……いや、もはや限界寸前だ。
 ミリスの中で何かが腹の底から押し上がり、閉ざした唇の隙間から漏れる声が徐々に大きくなっている。このままいけば、やがて我慢は崩壊するに違いないだろう。

――サワッ……!

「ぁ、うぁあぁっ……! はっ、はふうぅううあぁあっは……! ひ……あっ、っ、ふふっ!」

 そして、その瞬間は思いのほかすぐにやってくる。

「はあっ、ふっ……! ふっひゅふふ……! ふ、あ……あっ! ぅあ……ぁふっ、ふっ、ふぁあっはっはははははははっ!?」

 腋、脚、首。これらの箇所に与えられる刺激を意識しすぎるあまりに、他の場所への意識が疎かになってしまっていた。
 気付いた頃にはもう遅かった。新たに出現したマジックハンドが服の中に入り込むと、そのままお腹を撫で回し始めた。すると、堰を切ったようにミリスの口から大きな笑い声が流れ始めた。

「ふひゃっふひひひぁああっははははははははっ! やぁっ、やはっひゃあぁぁあっひゃひゃひゃ! くすぐったいっさわるなっさわっにゃああぁぁあっはっはっはひゃはははははっ!!」

 服の中でもぞもぞ動きながら形のいいおへそを掠めるマジックハンドは、ミリスが体をくの字に折り曲げても執拗に追い回してくすぐり続ける。彼女のすべすべした肌の感触を堪能するような動きが非常にいやらしい。
 刺激にびくびくと反応して悶えるミリスは、拒絶の言葉を何度も吐き出そうとする。しかし、それすらも笑い声に上書きされうまく言葉にならない。
 たとえ言葉になったとしても一度作動したトラップだ。ミリスがどれだけ望もうが、手すりを持っている限りくすぐりの手が止まることはない。

「あはっあああぁぁあっはっはははははっ! こんなのむりいぃぃぃぃぃっ!」

 苦しい、嫌だ、もうくすぐられたくない。ミリスの頭の中はそういった感情で溢れていた。くねくねと身を揺するたび、短いスカートが捲れてピンク色の下着が見え隠れする。それを気にする余裕もないのか、彼女は身を振って刺激から逃れようと必死だ。

「ほらほらぁ、がんばってがんばって~♪」
「ひひゃっひやぁぁああっはあぁあっはははははははははは! そんなこといわれひゃっへへへへへへぇぇぇぇ!」

 お腹を責めるマジックハンドへ続くように、次々と服の中への侵略が進んでいく。素肌に触れる数が増えると、それだけで純粋なくすぐったさは増していく。

「ゃはははっはははぁあぁぁっ! やぁっやだあぁあぁぁっ! これ以上やだぁあっはっははははぁあっ!!」

 あばらのラインに沿って、指がすーっと斜めになぞる動きを繰り返す。外側との違いを表現するように、腋へと昇ったマジックハンドは素肌を直接かりかり引っ掻く。発達の乏しい乳房の間を撫でられると、いいようのない感覚に翻弄されてしまう。

「へっへんなとこさわっひゃひゃひゃひゃ! ぶわっぶひゃあぁああぁああっはっははははははは! はいるなっはいるにゃっへへへへへへへへぇぇぇ! せめっ、ぇひぃぃいっ! やふっやすませっやすまへへへへぇぇえ!」

 波のように押し寄せる刺激に対し、ミリスは一秒たりとも休ませてもらえず溺れるしかない。
 ここまで多くの手に体を触られ続ける経験は今までになく、人生で最も長く・大きく笑わされているといっても過言ではない。呼吸もままならないミリスが休憩を訴えるのも無理はない。同じ姿勢を保っていられるだけでも奇跡的なのだ。

「私のお部屋にまで来るんでしょ~? それとも諦めちゃうの~?」

 くすぐられながらもゆっくりと進んでいたミリスだったが、大きく笑い出してからは次の一歩が踏み出せないでいた。もはや進むどころではない。このまま引き返してしまいたい衝動にも駆られてしまうほどに、彼女はこの苦しみから逃れたがっている。

「っ……!」

 しかし、引き返すということは自分の脚を諦めるということだ。
 そんなわけにはいかない。それに、これまで受けたくすぐりの仕返しもまだ済んでいない。このままやられっぱなしで帰るなんて悔しすぎる。

「ぅあ、はっはははぁぁぁっ! だっだれ、がぁぁあっはっはははは……! あき、らめぇえっへっへっへへへへぇぇっ……!」

 ミリスは手すりをぎゅっと握る強さをいっそう強め、魔女の煽りを突っぱねるように怒りの炎を大きく燃え上がらせた。

「あきらめるっ、わけぇ……! っ、っっ……! ひゅひっ、ひっ……ぎひひひひひひ……!」

 くすぐったい感覚を跳ね除けるように、その一歩をやや大股で踏み出した。

「ゃ……は、はっ……はひぁああぁぁぁぁっ! ふぁああぁ~っはははははははははははっ! やっ、やっぱきついぃぃぃぃいいいいいいっ!」

 が、結局はその一歩でミリスの抵抗は終わってしまった。

「ふぅん……?」

 ミリスが笑い声を封じ込めていたのは、十秒程度の短い時間であった。それを見ていたフィリア及び使い魔の目がほんのりと興味深そうに細まっていたのだが、ミリスはそれに気付く余裕もなかった。

「よーし。その頑張りに免じて、お姉さんからのアドバイスをあげよう~」
「ぅあっ、ぅひゃっはっはっはははははは!? なっっなにぃいひっひひひひひひっ!?」

 先ほどまでやや遠巻きに見ていた使い魔が、ミリスの眼前に現れた。

「この手すり、実はマジックハンドのスイッチになってるんだけど……それはもうわかってるって顔だね~?」
「やっ、やっぱり騙して……ひゃわあああぁっ!?」

 背後から忍び寄ってきた二本のマジックハンドに、脇腹をふにっと揉まれて言葉が遮られる。そんなミリスを尻目に、魔女は言葉を続ける。

「手を離したら止まるんだけど……今離すと確実に落ちちゃうよね? そうならないために、手すりの向こう側に赤色の部分があるんだけど……見えるかな?」

 はっきりとは見えないが、言われてみるとぼやーっと赤みがかった光がある。

「そこがマジックハンドの動作を止めるスイッチってわけ。つまりはというと……ここで手を離すか、あそこまで頑張って進んでねっ!」

 それだけ言い残すと、使い魔は定位置に戻った。どうやら、アドバイスはこれで終わりらしい。

「ぜんぜ……んぁははっはははははは! あどばいすにぃいいっひひひひひひひっ! ぐひっ、くひゅひゅひゅひゅひゅ!」

 要するに、先へ進まなければこのくすぐりは止まないということだ。脚ががくがくと震え、立っているのがやっとな現状では腕を下ろすという選択肢はありえない。

 だが、裏を返せば赤い部分までたどり着けばこの苦しみから解放されるということだ。

 フィリアの言葉を信じるのはシャクだが、とにかく藁にもすがる思いで進むしかない。

「わかっ、わかぁああっはっははははははっ! す、すすめばっ、いいんでしょおぉぉ……!」

 一縷の希望を視線の先に見据え、ミリスは再び足を動かし始めた。



 進む。

 時間とともに増え続けるマジックハンドたちは、ミリスにぴったり張り付いて指を動かし続けている。

 進む。

 まるで亀のような鈍い歩みだ。散々と笑わされ続け、身も心も疲労困憊。しかも足元に気を付けながら進まねばならないのだから無理もない。

 進んでいく。

 いつしかミリスは前を向くのを止めて頭を垂れるようになった。
諦めたわけではない。今のペースで進んでいては向こうまでかかる時間を考えてしまい、辛くて心が折れそうになるからだ。

「はぁ……はぁ……」

 どれくらいの時間が経っただろうか。数十分かもしれないし、一時間は過ぎたかもしれない。
 時間という概念を忘れて久しくなり、ある時に異なる感触をミリスは感じ取った。それと同時に、マジックハンドによる責めが止んだようにも感じられた。
 汗にまみれ、くすぐったさを誤魔化すために何度も首を振っていたため、彼女の髪はすっかりボサボサに乱れてしまった。雨上がりの屋根のように、汗の雫がぽたぽたこぼれて奈落に吸い込まれていく。

「は、ぁ……?」

 一体何だろうか。足を止め、息を整えながら顔をゆっくりと上げた。何かが引っかかっているような、そんな感触が手に伝わっていた。

 手すりは今いる場所で終わっており、そこより先は上向きにカーブしていた。そして、ミリスの手は赤い部分をしっかり掴んでいた。すぐさま周りを見渡すと、マジックハンドはすっかり動かなくなっていた。

「こ、これって……!」

 一種の達成感を得て、ミリスは思わず笑みをこぼした。先ほどまでの強制的な笑顔ではない。ホッとしたような、嬉しさを表現したそれだ。

「おお、すご~い! よく頑張って、ここまで来れたね~」

 労いの言葉をかけられるミリス。この時ばかりは、彼女がその声に苛立ちを感じさせることはなかった。
 ただ嬉しい。そんな感情だけがミリスの頭の中で満たされていた。

「ささ、あとちょっとだよ! 最後まで気を抜いちゃダメだよ~?」

 見ると、あと数歩で対岸へと到着できる状態だった。細い道の先は、赤い絨毯の引かれた廊下が続いていた。

「……よし」

 あと数歩、あと数歩でここから抜け出せる。
 くすぐったさの余韻を引きずりながらも、終わりに向けて慎重に手すりから腕を下ろした。
 そして、落ちないように気を付けながら一歩踏み出した。

――ススッ……!

「……っ!?」

 しかしその瞬間、一陣の刺激が足の裏を駆けた。

「人の忠告は、ちゃ~んと聞かないとダ・メ♪」

 普段のミリスであるならば、これは我慢できなくもない刺激だっただろう。
 しかし、今ばかりは勝手が違う。マジックハンドから解放され、ゴールを目前にして安堵しきっていたミリスの頭の中からは、足の裏へのくすぐりが思考の外へ追いやられてしまっていたのだ。

「ゃ……! い、今はっ! ふふ……! ひゅひひっ……! だ、だめぇ……!」

 油断。その二文字が、ミリスの頭によぎった。
 緊張の糸が解けたタイミングを、フィリアはずっと狙っていたのだ。アドバイスを告げた時から……いや、ミリスが橋を渡る前から。

「くく、く……ううぅうんっ……! きゃっ、はっ……はふふふ……!」

 人差し指が土踏まずを軽くなぞる程度の、ほんのわずかな動き。フィリアの指は、窓をしたたる雨粒のようにゆっくりと上下する。その度に、ミリスの口からは可愛らしい声が漏れだしてしまう。

「っ、くっ……く、ふうぅううっ……! こ、こんなの……たいした、ことぉ……!」

 だとしても、慣れてしまえば大した刺激ではない。
 突然のことに驚きはしたが、振り上げた足を橋の上に乗せる邪魔にもならない。ミリスは自分にそう言い聞かせ、慎重に足を下ろしていく。

――ツツーッ……!

「ひゃあぁぁっ!?」

 だが、そんな甘い考えはフィリアにとっては手に取るようにわかってしまう。かかとが着く寸前で足の裏へと伝わる刺激が大きくなり、ミリスの全身はびくっと跳ねた。

 触れている指の本数は変わっていない。ただ、緩急をつけるように人差し指でなぞるのを速めただけだ。
 くすぐりの強さはそれだけで充分だった。不意打ち的な刺激で足の位置がずれ、ミリスがバランスを崩すためには。

「ふぁ、おっ落ち……! 落ち、ちゃうっ……!」

 足を踏み外したミリスは、軸足だけで立たざるを得なくなる。

「戻しを小さくしないと落ちちゃうよ~?」
「ぅ、うるさっ……ふひぃぃいっ!?」

 バランスを戻そうと、ミリスは腕をばたつかせる。それを見て、フィリアはすかさず軸足に指を走らせた。

「だ、だめっ……! っあ、ふぁははは……! ちからっ、抜けひゃふふふ……!」

 魔女の右手が土踏まずを、左手が足の甲を撫で回す。砂山の根元を崩すような動きで二か所を挟み撃ちにし、ミリスの軸足をじわじわ弱めていく。

「ぁふ……! や、やだ……! 落ちたく、落ちたくなぁあっはっはははははははっ!?」

 慌てて力を込めようとした瞬間、今度は足の裏全体にとてつもない刺激が突き抜けた。

「ひゃへっ、ゃめえぇええっへっへへへへへへぇぇぇえっ! きゅうにっきゅうにつよくしちゃああぁぁっ!」

 フィリアが両手を使い、十本の指でかき混ぜるように足の裏をくすぐったのだ。
 足元から脳天まで一気に駆けるくすぐったさに対し、ミリスは我慢する間もなく大きく笑い出してしまう。

「あはっはふっふぁーっはっはははははははっ! だめぇ、だめなんだってええぇぇぇぇっ!」

 笑い声をあげてしまうと、もう止まらない。軸足どころか、全身から力の抜けたミリス。膝からガクッと崩れ落ち、彼女の身は途端に大きく傾いた。

「っ、あっ……!」

 横向きに倒れ始めるミリスの体は、穴へ引き寄せられるように地面と平行になっていく。
 浮遊感が全身を包んだ。それと同時に、足の裏へのくすぐりが止む。

「わ……ぁあああああああっ!?」

 靴底が橋の上から完全に離れると、ミリスの体は宙へと投げ出された。
 落ちる直前に手を伸ばすが、無情にもミリスの手は何も掴むことができなかった。

「っ……!」

 死を覚悟し、彼女は思わず目を瞑った。

「…………」

 落ちる。そのまま重力に従い、彼女は真っ逆さまに落ちていく。
 だが、落下は一分も経たずして終わりを迎えた。

「…………」

 痛みは全くない。しかし地面に足が着いた訳ではなく、浮遊感はまだ続いている。

「……?」

 不思議に思ったミリスがゆっくりと目を開けると、

「ひっ……!?」

 彼女は全身を何かに支えられていた。
 手足を掴んで身を受け止めた何か、その正体は……
 先ほどまでミリスを苦しめていたものと同じもの――何十・何百個と立ち並ぶ、おびただしい数のマジックハンドであった。

「い、イヤ……」

 マジックハンドの大群がミリスの全身を覆うと、それぞれが見せびらかすように五本の指を蠢かし始めた。

「嫌ぁ……!」

 暗闇の底で悲鳴が湧き起こり、ミリスの地獄が幕を開けた。






 


 シャンデリアによって明るく照らされた一室。
 レトロなダイニングチェアに腰かけ、何かを眺めているのは煌びやかなドレス姿の女性。屋敷の主――フィリア・ルティックであった。

「ふふ、いいよぉ。いいよぉ……!」

 口角を上げながら興奮を隠そうともしないフィリア。彼女は使い魔を介し、壁に四角く縁どられた映像を眺めている。

『ぅわぁぁあああっはははははっ! ふひゃっぶはっひぁぁあぁあああぁっ! しぬっ、ほんと死んじゃああぁぁあっひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!』

 その中で、少女――ミリス・ロルテが笑っていた。金色の髪を振り乱しながら、だらしなく開いた口から涎を撒き散らして。
 ミリスの周りには、白い手が数多く纏わりついていた。餌に群がる動物の如く群がるマジックハンドは、フィリア自身が作り上げたものだ。一つ一つが意思を持って指を動かし、ミリスを笑わせてやろうと躍起になってくすぐっている。

『ふひっぎひひひひぃぃいいぃぃっ! ちょっとぉぉ、ちょっとでいいからあぁぁぁっ! とめへえええっへへへへへっひぇひぇひぇっ!』

 腋の下では二十本以上の指が所狭しに押し寄せ、窪みをほじくるようにくすぐっている。
腕を上げた状態のミリスは腋を守りたい衝動で頭がいっぱいだが、彼女の体を空中で支えている別のマジックハンドが手首をがっしり掴んで離さない。腕を降ろそうと力を込めても、マジックハンドの触れる面積に一ミリたりとも影響を及ぼすことは叶わない。

『おわっおわぁぁああっはははははは! ぎぁっひぁああああっははははっはははははははっ! あぁぁぁっ! くるひっ、おにゃかくるしひっひひひひぃぃぃっ! はなりぇへっへへえへえええぇぇえぇぇっ!』

 胴体部分においても、マジックハンドは肌を覆い隠すように殺到していた。
 陸へ打ち上げられた魚のように、びくびく激しく身を跳ねるミリス。背中側や側面に敷き詰められたマジックハンドは、彼女の体を受け止めながらくすぐりを続けていた。
 前側では衣服を捲りあげて次々と侵入したマジックハンドが、ミリスの白くてすべすべなお腹に指を走らせている。わしゃわしゃと動いて腹部を蹂躙する白い指は数えきれないほどの本数だ。
 その中で、ただ一点の穴――綺麗な楕円形のおへそに指先が掠ると、ミリスは全身に電撃を浴びせられたような感覚で頭が真っ白になる。

『ぃぎゃああぁぁぁぁっ! ひぁっひひゃあぁぁっ! たったひゅけええぇええっへっへへへへへへっ! やぁぁあああっ、もうやはっはっははははぁぁぁぁぁっ!』

 ミリスが画面の向こうで助けを求めて叫んでいるが、フィリアは一切の同情を寄せてはいない。当然、責めを緩めてやろうという気概もない。傍らのテーブルから紅茶を口に運び、フィリアは楽しそうに微笑む。

「んー、美味し。足もすっごいビクビクしてる。ホント、可愛いなぁ♪」

 フィリアは左腕で、膝より下部分を象ったもの抱きしめていた。数日前、魔法で複製したミリスの脚だ。
 その指先が忙しそうに暴れているのを見ながら、フィリアは足の裏を優しく撫でた。まるで動物のぬいぐるみを優しく撫でるように。

『ぁぁああっははははははっ! あふっふっふひぁああははあはははははははっ!』
「ふむふむ、こうしたらどうなるかなぁ……?」
『んびゃあぁぁぁぁあっ!? はっはひひひひひはははははっ!? あっ、ぁぁぁあしあぁぁあっひゃひゃひゃひゃっ! あしのうらわぁぁあああぁあっはっははははははははははっ!? これいじょうやあぁぁぁああ~ああぁあっはっははははははははははははっ!』

 多くのマジックハンドにくすぐられているミリスに対し、撫でる程度の刺激では焼け石に水だと思ったようだ。
 これまで何度もミリスの足をくすぐっていたフィリアには、どこをどう攻めれば効果的であるかがわかっていた。地面に接する機会が少なく、多くの神経が集中する皮膚が薄い土踏まず。そこを重点的に爪で引っ掻くようにくすぐると、ミリスは我慢できずに大笑いしていたのだ。
 今の状態であってもそれは例外ではなかった。マジックハンドによって与えられるくすぐったさと協調するように、土踏まずへの刺激は更に大きな反応を引き出させた。

『いやいやああぁぁぁあああああっ! あしかりかりしひゃあぁぁああああっはっははははははははは! そこほんときついぃいぃいぃいいっひっひひひひっ! ひひっ、ひぎゃあぁああああっはっははははははは!』

 悲鳴のような笑い声は止むことがない。
 拷問にも等しい膨大な刺激に、ミリスは半狂乱になって叫ぶことしかできなかった。
 穴に落ちてから一時間はくすぐられ続け、ミリスの体力はとうに限界を過ぎている。息も絶え絶えで、肺に酸素も足りていないのだろう。意識は朦朧としていて、干からびた喉の奥から笑い声を絞り出されている。

『息できにゃあぁああぁあっはっははははははは! ぎひゃあぁぁぁあっっはっはっははは! びゃあぁぁぁぁあああぁっ! ぐるじいくるひひぃいぃいっひっひひひひひひひっ! しぬぅううっ、しんじゃううぅうあうあぁああっはっはははははははは!』

 駄々をこねるように暴れるミリスが拘束を外すには至らない。そして、そんな抵抗は徐々に小さな動きとなっていく。蓄積していく疲労で頭が真っ白になっていく中で、彼女の脳裏に諦めの感情が色濃くなっていく。
 いっそ死んでしまいたい。狂ってしまいたい。
 身も心も幼いミリスが、体験したことのない苦しみから逃れたいと思うのは当然だ。落ちてからというもの、フィリアの声は彼女の耳に届いていない。憎しみを抱いた相手であっても、今は声を聞きたい、助けて欲しい。

『ぃぎぃぃいいっひっひひひひひひっ! ひがぁぁああっひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!』

 終わりの見えない責めに、ミリスの目から光が失われていく。

『っ……ぁ、あぁああああっ……! ふぎゃあぁぁあああ~っはっびゃはぁぁあっはははははははははははははっ!』

 どれくらい時間が経ったか、ミリスに知る手段はない。

『ひはっ、ぁ……ぁあっははっ! はぐっ、あ、ぁ……! っっ……!』

 足の裏をくすぐり始めてから数十分ほど経った。

「……ありゃ、気絶しちゃった」

 糸が切れた人形のように、ミリスは動かなくなった。がっくりとうな垂れた彼女の呼吸は、ほんの微かだが機能していた。
 幸運なことに、ミリスは意識を手放すことができた。
 しかし、それは彼女にとって一時的な救いに過ぎない。目を覚ませば、フィリアによって弄ばれるという事実は変わらない。

「ま、いっか。そろそろ引き上げてあげよーっと」

 フィリアがパチンと指を鳴らすと、マジックハンドの動きに変化が加わった。大切なものを扱うように、大量のマジックハンドがミリスの体を運んでいく。

「ふふふ……思った以上に、この子は長く楽しめそう♪」

 映像をプツリと打ち切ると、椅子から立ちあがったフィリアは次の準備に取り掛かった。



 数時間後、ミリスの身体はベッドの上にあった。

「ぅ……」

 ベッドは二人でも余るほどの広さで、マシュマロのように柔らかい。大金を支払わなければ、これほどのもので横になることはできないだろう。彼女に掛けられている毛布も同様に高級そうな素材が使われていた。

「ここは……?」

 顔を俯かせてみると、腰に差していた直剣や軽装鎧が外されていることに気が付いた。服装は黒いワンピースのままで、脚にはお馴染みのブーツが履かされていた。
 新品に戻してもらったはいいが、その代償に脚を複製させられた。良い思い出を台無しにされた気分だ。脱いだところで事態は変わらないのだが。
ミリスは気絶している間に、屋敷の一室に運び込まれていた。内装は豪華で、彼女の知る部屋の何倍も広い。

「おっはよー」

 体を起こしてきょろきょろと辺りを見渡していると声をかけられた。その方向に顔を向けると、椅子に座ってにこやかに微笑むフィリアと目が合った。すぐ横に位置取る彼女の姿により、寝起きでボーっとしていた意識がすぐさま現実へと引き戻される。
 こうして実際に顔を合わせるのは数日ぶりだが、懐かしむような親近感は一切ない。むしろ、できるならばさっさと縁を切りたい人物だ。

「っ……」

 シーツを握りしめながら、ミリスはフィリアを睨みつけた。挨拶を返すのも嫌だとばかりに、憎しみを込めて強がる。弱みを見せるわけにはいかないという意地もあった。

「へぇ、そういう態度取っちゃうんだ」

 これを良しとしなかったのか、意味ありげに微笑んだフィリアがミリスの傍に寄ると、揉むような指の動きを見せつけ始めた。

「挨拶もできないよーな悪い子には……お仕置きが必要かなー?」

 散々苦しめられたマジックハンドの姿が思い出され、ミリスは思わず飛び跳ねそうになった。
見ているだけでくすぐったいが、ミリスは強気な態度を崩さない。これ以上、この女の思い通りにしてやるものかという決意の表れだ。

「っっ……!」

 来るなら来い。今度は、絶対に笑ってなんかやるもんか。ミリスの奥歯がかっちり合わさる。
心臓が鳴りやまなくてうるさい。一瞬たりとも気が抜けない。蜘蛛が歩くような動きで、ミリスの弱点――お腹に指がゆっくり接近する。

「……こちょこちょっ♪」
「ぁはっ……!?」

 腹部から全身にくすぐったさが駆け巡り、思わず小さな声が漏れてしまった。

「あっれ~? 今、笑っちゃったぁ~?」

 だが、フィリアの細指は一瞬たりとも肌に触れていなかった。
 身構えていたせいでくすぐったさをかえって意識してしまい、触れられたように錯覚してしまったのだ。

「ぅうう……」

 こんな単純な手に引っかかってしまうなんて情けない。穴があるなら入りたい、耳を塞げるなら塞いでしまいたい。ミリスの顔が羞恥で彩られていく。もはや、無言を貫き通すことはできなかった。

「ほんとに可愛いなぁ。その可愛さに免じて、さっきの無礼は許しちゃおっと。でも、今度は大事な話をするから無視しないで欲しいな」
「わかったわよ……」
「よろしい。では単刀直入に。お嬢ちゃん、私の妹になる気はない?」
「は……?」

 意味不明な申し出を受け、ミリスの頭上にクエスチョンマークが浮かんだ。それでも、フィリアは言葉を続けていく。慈しむように、気遣うように、ゆっくりとしたトーンで語り続ける。

「手厚く歓迎するよ。このお部屋をあげる、美味しいご飯も食べ放題。可愛い服だってクローゼットに沢山」

 ミリスの手をとると、フィリアは重ねた手のひらで優しく包み込んだ。

「私ね、可愛い女の子が危険な目に遭うのを見てられないんだ。お嬢ちゃん、いつも危険な魔物と戦ってるよね? もう、そんなことしなくていいんだよ? ここで一緒に暮らそうよ」

 ミリスの生活は決して裕福とはいえない。冒険者ギルドの依頼で日銭を稼ぐ毎日。自由気ままではあるが収入も安定せず危険が伴う。
 そんなミリスに対して、無条件で居場所を与えようというのだ。言葉だけ聞けば、とても魅力的な提案だ。

「……お断りよ」

 だが、ミリスは首を左右に振りフィリアの手を払いのけた。

「そんな都合のいい話、信じられる訳ないでしょ」

 この女が言うことだ。きっと何かを企んでいるに違いない。そう判断したためだ。

「むぅ、どうして信じてくれないかなぁ。あ、そっか」

 フィリアが柏手を打つ。パンッと鮮やかに弾ける音がし、ミリスは思わず驚いてしまった。

「よくよく考えたら、まだお互いのこと全然知らないんだもん。いきなり家族になろうなんて言っても、そりゃあ気持ちが伝わらないよね」
「は……?」

 突然の話題転換に、ミリスは思わず呆気にとられる。

「というわけで、自己紹介しちゃうね。私はフィリア・ルティック。魔女やってま~す! 好きなものは可愛い女の子の笑顔。よろしくね~♪」

 にこにこと笑いながら自己紹介を済ませたフィリア。何故か最後は決めポーズとばかりに、目元で二本の指を横向きにするピースをしていた。

「…………」

 そんな彼女と対照的に、ミリスは不機嫌そうに黙っていた。

「さ、お嬢ちゃん。あなたのお名前は?」
「……名乗るわけ、ないでしょ」
「えー? 意地悪しないで教えてよー」

 自分勝手な理屈を押し付けられ、ミリスの中には怒りの感情でいっぱいだった。

「あんたみたいな奴に、名乗る名前なんて持ち合わせてないっ!」

――バサッ……!

 啖呵を切ると同時に、ベッドシーツをフィリア目がけて投げつけた。
 視界を奪うと同時に、ミリスはホルスターからナイフを引き抜きながらフィリアを押し倒した。
 解体用の小さなナイフで武器としては心もとないが、今のミリスが持つ唯一の武器だ。剣や鎧は押収されていたが、ベルトとホルスターが無事だったことが幸いした。

「ふぅ、詰めが甘かったわねっ!」

 シーツを剥がし、逆手に持ったナイフを喉元に突き付ける。フィリアを見下ろすミリスは勝ち誇った表情だ。

「……これは、何の真似かな?」
「分からない? 死にたくなかったら、さっさとあの脚を消してあたしを解放しなさい!」
 だが、フィリアの顔に焦りはない。ナイフの平たい部分を首元に押し付けられても、その様子は変わらなかった。
 そして全てを見通したような表情で、フィリアは言葉を発する。

「できるの? お嬢ちゃんに、人殺しが?」

 人殺し。

 その言葉に思わずミリスの心臓が鳴る。

「できるわよっ! これまでだって、魔物といっぱい戦ってきたんだから……」

 嘘だ。できるならばフィリアであっても殺したくはない。いくら憎いといっても、殺したいと思うほどではない。強気な態度を崩さないように必死だが、次第に目線は横に逸れていく。
 人を殺める行為を正当化できる理由もなく、動揺からミリスの手が震え始める。ナイフを取り落しそうになるが、ここで引いてはいけないとばかりに握る力を強める。

「……甘いなぁ、お嬢ちゃんは」
「う、うるさい! うるさ……ひあぁあっ!?」

 フィリアの呟くような声に反論した瞬間、ミリスの口から悲鳴のような声が飛び出した。

「な、今……ぁ、あっははははっ!?」

 そして、大きな笑い声をあげてしまう。足の裏に激しいくすぐったさが訪れたからだ。

「ひぁ、ぁあああぁああははははははっ! なっ、なんでなんでえぇええっへへへへ!?」

 腰砕けになり、ミリスの体が前に倒れる。覆いかぶさる形になる中、ミリスの胸辺りにフィリアの顔が収まる。ナイフは床にぐさりと刺さり、ミリスの手から離れた。
 複製された足をくすぐられているということで間違いない。しかし、その方法がわからず困惑していた。目の前に居るフィリアが何もしていないし何も持っていないためだ。

「んふふふ。このままちっぱいの感触を味わっていたいけど……はいっ、形勢逆て~ん♪」

 体を起こしてすばやく背後に回ると、フィリアはミリスの体を後ろから抱きしめた。フィリアの腕の中では、足を投げ出した状態で座らされた体勢のミリスがじたばたと暴れている。

「ねぇ、お嬢ちゃん。急にくすぐったくなったよね? なんでだと思う?」
「ぃやっ、いやぁあああっはははははははは! はなせえぇええっ! はなせええぇぇえええっ!」
「むぅ、聞こえてる? 聞こえてるでしょー? ちゃんと答えてくれないと、お姉さん傷ついちゃうぞ~?」

 フィリアの左手が、ミリスの右腋に忍び込んだ。ワンピースタイプの黒い服の上で、陶器のような白い指が窪みをかき混ぜるようにくすぐり始める。

「ねぇ、気になるでしょ~? 気になって気になって、今夜眠れなくなるくらい気になるでしょ~?」
「ぁぁああっはははははっ! きになるっ、きににゃるからぁぁあっはっはっはっはっはっはっ! わきはやめてぇええええぇえっ!」

 気絶するまで施されていたくすぐりの余韻が残っているのか、ミリスの全身はひどく敏感になっていた。それに気付くよりも早く、彼女の脳は激しい危険信号を鳴らす。命にかかわるほどの恐怖であると感じたが故だ。強気に出た時と違い、今のミリスはくすぐりから逃れることしか考えられなかった。

「こちょこちょこちょこちょ~♪ 最初からそう言えばいいのにぃ」
「ふ、ふふふふぁぁぁあああっはっはははは!? なっ、ぃにゃあぁあっひゃっひゃひゃひゃひゃひゃ! なんでっなんでやめへへへへぇぇぇぇっ!」
「どこから説明しよっかなぁ。あ、まずは急にくすぐったくなった理由だよね。お嬢ちゃんの足は私の部屋に保管しててー、それを魔法で作った手にこちょこちょさせてるんだよねぇ。ほら、私ってば魔女でしょ? 魔法の天才でしょ? あれくらいの魔法だったら詠唱や杖が無くても、出て来て欲しいなー、こう動いて欲しいなーって思っただけでその通りになっちゃうの。すごいでしょ?」
「そんなのずるいいぃいいいっひひひひひっ! とめてとめへへへぇえぇええっ! くしゅぐっひゃひひひひひひぃぃいっ!」

 しかしミリスの思惑に反して、フィリアはくすぐりを止めようとしない。説明を受けていても、その内容はほとんど頭に入っていない。

「止めませ~ん♪ さっきはナイフを突きつけられて怖かったんだもーん。それに名前も教えてくれなかったから、お嬢ちゃんは相応の罰を受けないといけないのだぁ」
「そっそれはあんたが勝手にぃぃいいいっひっひひひひひいいぃっ!? ぃひゃっひひゃああぁぁあっ! やだっそこやだやだああぁぁぁっ!」

 はいずり回る指は腋から降りてわき腹に、あばら骨を這いまわりながら最終的にお腹へと到着した。無駄な脂肪が無いにも関わらず柔らかいこの部位は、ミリスにとって特に敏感な部分だ。

「む~、全然反省してないなぁ? そんな悪い子にはぁ……もう直接くすぐっちゃおっ」

 そんな箇所に対し、今度は素肌に触れようというのだ。くすぐりながらフィリアの指はワンピースの布地を器用に巻きこんでいく。
 次第に白いお腹が露わになっていくのを感じながら、ミリスは青ざめる。敏感な部位を直接責め立てようというのだ。もはや死刑宣告に等しい。
 そして指先がおへそを掠めた瞬間、ミリスの喉からひと際大きな声が飛び出した。

「ゃあぁああああぁああぁぁっ!? あっはっはははははははっ! なっなんでそこばっかりいいいぃぃぃっ!?」

 フィリアの細指はマジックハンドと違い、執拗に弱点を狙い澄ました意地悪な責めを展開する。
指の腹が撫で、爪が軽く掻き、五本の指が入れ替わり立ち替わり。おへそをほじくるかと思えば脇腹やあばらを揉み解し笑い声を的確に引き出していく。

「うりうり~♪ ここが弱いんでしょ~? お姉さんは既に把握済みなのだぁ」
「ぅわ、うわああぁぁああっはははははっはははははっ! こんなのむりぃいいっひっひひひぃぃっ! やめてやめてえぇぇぇぇぇぇっ!」
「ふふ、必死にお腹を動かしちゃってぇ、可愛いなぁ。どう? 止めて欲しい? さっきまでの失礼な態度、もう反省したぁ?」

 お腹を引っ込めたり身をよじったりしても、くすぐったさは一切軽減されることはない。ミリスの悲鳴のような笑い声は途切れることはない。言う通りにすれば助けてもらえると思い、彼女は笑い悶えながらコクコクと首を縦に振り続ける。

「ふふ、じゃあ名前。お嬢ちゃんの名前はなぁに? 教えてくれたらやめてあげる♪」

 先ほどは啖呵を切ってシーツを投げることができた。だが、くすぐられている今となっては逆転の目はない。アピールしている優しさが果たして本当なのかどうかすら判断ができないほど、ミリスのプライドは粉々に砕け散っていた。

「うぅうっ、うっふっふふふっ! み、ひっひひひひひひひひっ!? みりひゅっふふふふぁぁあああっはっははははは!? いひぇっ、いうからやめぇええあぁぁぁぁああああっはっはっはははははは! とめてっとめええぇえぇえっ!」
「全然わかんないよ~? ほらほらぁ、最初から。頑張って頑張って~」

 ミリスは名前を名乗ろうと必死だ。くすぐりから逃れたいがために。ある程度言葉を紡ぐことができたかと思えば、急に指を速く動かされて言葉が笑い声に上書きされてしまう。
これをもどかしいと感じる余裕も、フィリアの意地悪なやり方に憤慨する余裕も無い。緩急に翻弄されながらも、諦めに手を伸ばしてしまわないよう気を確かに持ち、唇を動かし続けた。

「ぁあっ、ふふぁぁああぁあっ! みりぃやあぁああっはっはははは! は、ぁああっ……! みりすっ、ミリス・ロルテぇえっひへへぇええええっ! これ、でぇえぇえ! これでいいでしょおおぉぉ!?」
「そっかー、ミリスちゃんっていうんだぁ。じゃ、約束通り一旦きゅうけ~い♪」

 そして何度もやり直しを要求されながらも、遂には名前をハッキリ言うことができた。すると約束通り、お腹をくすぐる手の動きが止まった。

「はぁ、はぁ……」

 ミリスは荒い息遣いで酸素を肺に取り入れながら、ぐったりとフィリアの体にもたれかかる。汗っぽくなった服は捲り上げられたままだが、それを直す気力すら残っていない。
 全力疾走を何度も繰り返した後のような疲労感に包まれる中、頭を優しく撫でられている感覚が伝わる。顔を上げると、微笑むフィリアと目が合った。飛び退きたい衝動に駆られたが、ミリスは疲労で体が思うように動かない。

「さて、と。お互いに自己紹介が終わったところでもう一度聞くけど。ミリスちゃん、やっぱり私の妹になる気はない?」
「……やだ」
「ありゃま、残念。じゃあ今は義理の妹ってことで」
「どう違うのよ」
「んーまぁ、色々かな。その辺は明日説明するよ」
 
 明日。やはりここでの生活を余儀なくされるらしい。
 もちろんミリスはそのことに納得などしていない。だが、今は下手に抗うよりも従ったふりをした方がいい。そう判断し、ミリスはされるがままフィリアにお姫様抱っこされベッドへ運ばれていく。

「それじゃあ歓迎も兼ねて、今からお姉さんが晩御飯を作って持ってきてあげよーう。わかってると思うけど……逃げちゃだめだからね~?」

 いつか逃げ出してやる。そんな考えすら、やはり魔女にはお見通しであった。

「……わかってるわよ」
「ほんとぉ? ま、大人しく待っててね。それまで退屈させないように……ふふふ、じゃあねー」

 何やら不穏な微笑みを浮かべて言い残すと、フィリアは扉を閉めて部屋を後にした。

「っ……!?」

 その瞬間、ミリスの足の裏にくすぐったさが走った。

「ふひゅ、っ……! んっ、ふっ、ぅふふふっ……!?」

 先ほどの笑みには釘を刺す意味合いもあったのだろう。複製した脚を再びマジックハンドにくすぐらせているようだ。

「また……! あ、ぁあっ! ぁ、はっあはははははっ! 脚も絶対にぃ……!」

 絶対に脚も取り返す。身悶えしながら床に刺さるナイフを見つめ、ミリスは決意を新たにした。
いつか。いつかあの憎き魔女を倒し、脚を取り返し、この屋敷から抜け出してやる。

「ぃひ、ひぁああっああっははははは! はやくっ、はやくきなさいよぉおおお! ふぃりあああぁあああっ!」

 くすぐりに耐えるため、決意をより一層強いものとするため、シーツを握る力が強まった。

 今は反撃の時を待つ。待ち続ける。ミリスにとっての、新たなる戦いの日々が幕を開けた。

~完~

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以上です。

数年ごしで、ようやっとミリスちゃんのお話に完結の形をとることができました。これもひとえに皆さんとミリスちゃんに思い入れを持ってくださってる方々のおかげです(特にしゅんかちさん、ぽーさんには感謝してもしきれません)

でも、ミリスちゃんの話をこれで終わりにするのは、作者個人としても勿体ないなぁと思っています。

今回は第一部完!ということで、屋敷に幽閉されてからの日常短編やいい感じの話が浮かべば第二部といった感じにやっていきたいなとも思っています!

COM3D2で色々とスクショを撮りながら、ほかの作品もカキカキしながら、またのんびり考えていこうと思います。

もしよろしければ、読み終えた後にpixivの方のこの作品にもブックマークやいいねをいただけると励みになります。

最後に、ここまで読んでくださってありがとうございます! また次の更新でお会いしましょう!!

表紙候補


スケベスクショも作っていきますね。もう一人の魔女リーベちゃんのお話も書きたいー!